炭酸泉
小浜温泉は100度を超える高温で、食塩泉として知られていますが、ここの炭酸泉は小浜温泉唯一の冷泉です。温泉街の路地裏にある広場にボコボコと音を立てながら湧出しており、25度前後の低温となっています。近隣の温泉と違い、硫黄の香りが漂い、鉄分と炭酸が多く含まれていることが特徴です。明治末期から昭和初期にかけては、清涼感がある飲用水として、サイダー感覚でも利用されていました。
小浜温泉は100度を超える高温で、食塩泉として知られていますが、ここの炭酸泉は小浜温泉唯一の冷泉です。温泉街の路地裏にある広場にボコボコと音を立てながら湧出しており、25度前後の低温となっています。近隣の温泉と違い、硫黄の香りが漂い、鉄分と炭酸が多く含まれていることが特徴です。明治末期から昭和初期にかけては、清涼感がある飲用水として、サイダー感覚でも利用されていました。
雲仙が国立公園となった1934(昭和9)年に建設され、長崎県内で現存最古の木造公民館です。木造一部2階建て(約570平方メートル)。建物の保存状態もよく、水色のレトロな外観であり、地域住民のスポーツや会議、イベントなどの活動に利用されるなど身近な歴史的シンボルとして大変貴重な存在となっています。
老朽化に伴い現存する図面などの資料をもとに改修工事が行われ、建築当初に近い形に屋根や壁、床などが改修され、木枠の窓も復元され、2010年8月に竣工しました。
利用するには申請が必要です。
雲仙市ホームページ(https://www.city.unzen.nagasaki.jp/kiji0032545/index.html)
小浜ちゃんぽんは、豚骨や鶏ガラをベースにして、特産のカタクチイワシで出汁を取った、まろやかなスープが特徴。大正時代に長崎ちゃんぽんが小浜、天草に伝わり、独自の進化を遂げたというのが定説となっています。長らく「小浜ちゃんぽん」の名は知られていませんでしたが、2007(平成19)年に小浜ちゃんぽんマップが作成されたことがきっかけとなって結成された「小浜ちゃんぽん愛好会」の活動を通して、全国的に知られるようになりました。2013(平成25)年には、小浜ちゃんぽんの取り組みを題材にしたNHKの長崎発地域ドラマ「私(うち)の父はチャンポンマン」が放送され、大きな話題を呼びました。
現在、小浜温泉を中心に約10店舗で提供されています。
小浜ちゃんぽんマップは、小浜温泉旅館組合公式サイト(https://Obama.or.jp/pamphlet/)でダウンロードできます。
明治時代に創刊された短歌雑誌「アララギ」の代表的な歌人だった斎藤茂吉(1882~1953年)の歌碑が建つ公園。斎藤茂吉は幾度となく小浜温泉を訪れており、この場所から見る橘湾の夕日がお気に入りだったとされています。 歌碑には「ここに来て落日(いりひ)を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし」と刻まれています。橘湾に沈む夕日は、小浜を代表する景観の一つであり、夕焼けに感動して詠んだものと伝えられています。
小浜温泉の源泉温度105度にちなんだ、105メートルの長さを誇る足湯です。2010(平成22)年2月22日にオープンしました。足湯だけでなくウォーキング足湯、ペット足湯といった多彩な湯船があり、観光客や地元の方でにぎわっています。
すぐ近くには源泉を利用して農作物や海産物を蒸すことができる蒸釜も併設されているので、卵や野菜などお好きなものを蒸して、味わってみてはいかがでしょうか。
奈良時代初期に編纂された「肥前風土記」(713年)に、「高来(たかく)の峰の西南より、温泉の湧出するのが見ゆ」と記されており、小浜温泉のことを指すものと考えられています。古くから湯治場として利用されるようになったと言われています。
小浜温泉は現在でも全国有数の高い熱量と源泉温度を誇っており、小浜町内に30箇所ある源泉からは100度の湯が1日に15,000トンも湧きだしています。
小浜温泉につかると、体の芯までほっこり。ゆっくりつかって、旅の疲れを癒してください。
詳細は小浜温泉旅館組合公式サイト(https://obama.or.jp/)をご覧ください。
ここは「切通」と呼ばれ、丘を切り開いてつくった道路でした。かつては鶴亀城の東側を守る「切通城」が、現在の神代小学校の所にありました。
島原街道は、江戸時代に島原半島を一周する主要な道路で、島原城下から島原半島北側の有明海沿いを半時計回りに半周して愛野へ至る道(北目道)は、島原藩主の参勤交代において、諫早で長崎街道と合流して江戸へ向かう道となっており、今でも「殿様道」と呼ばれています。この切通から西へ向かうと佐藤医院の山手を通って長浜に至り、諫早方面につながっています。東へ向かうと、札の元などを経由して、島原方面につながっています。
また、真っすぐ西へ向かうと、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている神代小路地区があり、佐賀藩神代領の武家町でした。今なお江戸時代の地割が残り、武家屋敷等が保存されています。
文化9(1812)年、神代鍋島領主第10代・鍋島茂體(しげやす)の時代に創建されました。当初、粟島神社として建立されましたが、いつの頃からか淡島神社と呼ばれています。
現在の社殿は平成4(1992)年3月に再建されたものです。全国各地の淡(粟)島神社と同様に「縁結び」「安産」などにご利益があるとされ、特に女性の守り神として篤い信仰を集めています。ミニ鳥居が3基建っており、安産祈願のため、妊婦の方がくぐることで有名です。
また、桜の名所としても知られており、例年4月には花まつりが開かれ、演芸が奉納されるなど、多くの人出で賑わいます。周年行事の際には「浮立」や「義士踊り」なども披露されます。
この薬師堂から東へ約40mの場所にある大門橋は、島原藩と神代鍋島領の境目である神代川に架かかっている橋です。かつては手すりがない石橋が現在地より30mほど山手の方に位置し、神代領の入り口に対して鍵型をなしていましたが、昭和32(1957)年の大水害で壊れ、現在の場所に付け替えられました。
薬師堂には薬師如来、地蔵菩薩、八天宮が祀られています。薬師如来は、病気に苦しむ人々を助ける仏です。地蔵菩薩は、釈迦が亡くなってから弥勒菩薩が現れるまで衆生を救済するとされる菩薩で、享保8(1723)年、宝暦7(1757)年の建立とされます。火伏せの神様とされる八天宮は、大門地区で火災が続いたため、昭和35(1960)年に下古賀の田中山から分祀されたものです。
伊東家は、江戸時代から現代まで続く医者の家柄です。邸宅は残っていませんが、オガタマノキなど樹齢200年を超える大木が残っています。伊東家は初代・新左衛門が興し、キリシタン大名・有馬晴信により漢方内科医として召し抱えられた3代目に、キリシタン武将・結城弥平治(ゆうきやへいじ)の娘が嫁いでいます。
土黒村には寛文8(1668)年、4代目の代に移住し、「披雲堂(ひうんどう)」を開業し、治療を行っていました。寛政4(1792)年の島原大変時には、津波被害等で避難を余儀なくされた負傷者等を、7代目が治療したことが記録に残っています。
結城弥平治は美濃(岐阜県)出身で、小西行長の肥後(熊本県)宇土城入城に伴い、矢部城主を務め、関が原の戦い後、有馬晴信に金山城主として迎えられました。金山城は地元では結城城と呼ばれ、城跡が残っています。