ゆめの又ゆめ
[A dream after a dream]
「兵どもが夢のあと」広大な敷地に石垣のみが残る肥前名護屋城跡。名護屋には全国から名だたる武将が集められ、最盛期には20万人もの人が暮らしていました。目的は、朝鮮、更には明国へ攻め込むためでした。詫び茶を大成した千利休に太閤秀吉がつくらせ、その後大陸からの使者たちさえも驚かせたという黄金の茶室も、かつてはここにあった。
果てぬ夢の地から連れてこられた陶工たちは、この地に優れた焼き物の技術を伝え、唐津焼の礎を築いてくれた。「ゆめの又ゆめ」は秀吉辞世の句の一節。
唐津の風景
[Karatsu Kunchi & Niji no Matsubara]
【唐津くんち】毎年十一月二日から四日にかけて行われる唐津神社の秋季例大祭が唐津くんちである。三日の御旅所神幸の際、海と松林を背景に豪華絢爛な十四台の曳山が白砂に曳き込まれ、曳き出される様子は、圧巻の一言。「唐津の美」を凝縮した瞬間だ。
【虹の松原】絵唐津の意匠としても印象的な松の木。四百年ほど前、唐津藩主寺沢広高により潮風や飛砂を防ぐために植えられた松林は、二里(約8km・現在は4.5㎞)にもわたり、日本一の松原として名高い。その長さや唐津湾に沿って弧を描く様子から、虹の松原と呼ばれる。まさに白砂青松の美しさである。
陶芸家たちの
唐津暮らしを訪ねる
文・8/2編集室
唐津駅の南口を出て、ものの十分も歩くと、その窯元はある。今日の唐津焼を築いた中里太郎右衛門陶房は、唐津のまちの中心地に静かに佇む。近くにかつての登り窯跡もあり、古くからこの地で焼き物の伝統をつないできた歴史がうかがえる。
ある窯元は鏡山から虹の松原と海を見下ろす高台に。ある窯元は海の近くに。ある窯元は住宅地のなかにひっそりと。そして、またある窯元は里山の奥、深い緑に囲まれた場所に窯場をつくった。
多くの焼き物の産地では、有田や伊万里のように窯元が集まっているが、唐津の約七十ある窯元は、広い市内のあちこちに点在する。先祖伝来の土地であったり、土を求めてたどり着いたり、その理由はさまざまだが、器作りに最適な地を選び、唐津焼の作家たちは、⾃らを表現するための場所を築いていく。また、分業ではなく、ひとつの窯元で土こねから焼き上げ、場合によっては自らの手で土を探し、掘り、土作りから一貫して行う風土があり、それゆえ唐津焼には、作家の個性が色濃く出てくるのである。
しかし、それは完璧なものを己の手で作り上げる芸術家ではなく、「作り手八分、使い手二分」の唐津焼の哲学にも代表されるように、最後を使い手にゆだねるおおらかさがあり、作家たちのいい意味でのゆるさ、人間としての豊かさが、作る器にも表れている。
そんな唐津の作家たちは、唐津の新鮮な地元⾷材を自ら調理し、⾃ら作った器に盛り付け、⾷とお酒を楽しんでいる。いわば、唐津暮らしの達人たちなのである。
斑唐津
藁灰などを混ぜた白濁する釉薬をかけたもので、乳白色の表面に青や黒の斑点がぽつぽつと現れることから斑唐津の名がつけられた。別名白唐津とも呼ばれ、シンプルながらも深みのある表情があり、茶碗や猪口なども多く作られている。
絵唐津
日本で初めて絵付けを施したとされる唐津焼の代表格。鬼板と言われる鉄溶液で絵を描き、透明な釉薬をかけて焼いている。草木や花、鳥や幾何学文様など、作り手の身近なものが題材であり、素朴ながら繊細で力強い表情が魅力。
黒唐津
鉄分を多く含んだ黒釉を用いて焼き上げたもの。使用する土や岩石に含まれる鉄分の量や、酸化の度合いにより、飴色から褐色、深い黒まで、ひと口に黒と言っても幅広い色彩を生み出すが、総称して黒唐津と呼ばれている。
三島唐津
朝鮮の李朝三島の技法を受け継いだもの。唐津では江戸時代に生産が始まったが、日本各地の産地で類型を見ることができる。半乾きの素地に印花紋や線彫などの文様を施し、化粧土を塗り、さらに釉薬をかけて焼き上げていく。
青唐津
木灰釉をかけて焼いたもので、燃料の灰や生地の中に含まれる鉄分の化学変化で、酸化炎では淡黄褐色となり黄唐津と呼ばれ、還元炎では、青く発色し青唐津と呼ばれる。流れやすく、器の内側に溜まった釉薬も見どころのひとつ。
朝鮮唐津
鉄釉と灰釉の二種類の釉薬を使い、高温で焼くことで釉が自然に溶け合う様子が楽しめる。釉薬同士の境界に生まれる青や紫、黄色などの繊細な色や多彩な表情が特徴。黒く発色する鉄釉を下に、乳白色の灰釉を上から流すものが多く見られる。