karatsu P11-P24 [ja]

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ゆめの又ゆめ

[A dream after a dream]

「兵どもが夢のあと」広大な敷地に石垣のみが残る肥前名護屋城跡。名護屋には全国から名だたる武将が集められ、最盛期には20万人もの人が暮らしていました。目的は、朝鮮、更には明国へ攻め込むためでした。詫び茶を大成した千利休に太閤秀吉がつくらせ、その後大陸からの使者たちさえも驚かせたという黄金の茶室も、かつてはここにあった。

果てぬ夢の地から連れてこられた陶工たちは、この地に優れた焼き物の技術を伝え、唐津焼の礎を築いてくれた。「ゆめの又ゆめ」は秀吉辞世の句の一節。


唐津の風景

[Karatsu Kunchi & Niji no Matsubara]

【唐津くんち】毎年十一月二日から四日にかけて行われる唐津神社の秋季例大祭が唐津くんちである。三日の御旅所神幸の際、海と松林を背景に豪華絢爛な十四台の曳山が白砂に曳き込まれ、曳き出される様子は、圧巻の一言。「唐津の美」を凝縮した瞬間だ。

【虹の松原】絵唐津の意匠としても印象的な松の木。四百年ほど前、唐津藩主寺沢広高により潮風や飛砂を防ぐために植えられた松林は、二里(約8km・現在は4.5㎞)にもわたり、日本一の松原として名高い。その長さや唐津湾に沿って弧を描く様子から、虹の松原と呼ばれる。まさに白砂青松の美しさである。


陶芸家たちの
唐津暮らしを訪ねる

文・8/2編集室

唐津駅の南口を出て、ものの十分も歩くと、その窯元はある。今日の唐津焼を築いた中里太郎右衛門陶房は、唐津のまちの中心地に静かに佇む。近くにかつての登り窯跡もあり、古くからこの地で焼き物の伝統をつないできた歴史がうかがえる。

ある窯元は鏡山から虹の松原と海を見下ろす高台に。ある窯元は海の近くに。ある窯元は住宅地のなかにひっそりと。そして、またある窯元は里山の奥、深い緑に囲まれた場所に窯場をつくった。

多くの焼き物の産地では、有田や伊万里のように窯元が集まっているが、唐津の約七十ある窯元は、広い市内のあちこちに点在する。先祖伝来の土地であったり、土を求めてたどり着いたり、その理由はさまざまだが、器作りに最適な地を選び、唐津焼の作家たちは、⾃らを表現するための場所を築いていく。また、分業ではなく、ひとつの窯元で土こねから焼き上げ、場合によっては自らの手で土を探し、掘り、土作りから一貫して行う風土があり、それゆえ唐津焼には、作家の個性が色濃く出てくるのである。

しかし、それは完璧なものを己の手で作り上げる芸術家ではなく、「作り手八分、使い手二分」の唐津焼の哲学にも代表されるように、最後を使い手にゆだねるおおらかさがあり、作家たちのいい意味でのゆるさ、人間としての豊かさが、作る器にも表れている。

そんな唐津の作家たちは、唐津の新鮮な地元⾷材を自ら調理し、⾃ら作った器に盛り付け、⾷とお酒を楽しんでいる。いわば、唐津暮らしの達人たちなのである。


斑唐津

藁灰などを混ぜた白濁する釉薬をかけたもので、乳白色の表面に青や黒の斑点がぽつぽつと現れることから斑唐津の名がつけられた。別名白唐津とも呼ばれ、シンプルながらも深みのある表情があり、茶碗や猪口なども多く作られている。


絵唐津

日本で初めて絵付けを施したとされる唐津焼の代表格。鬼板と言われる鉄溶液で絵を描き、透明な釉薬をかけて焼いている。草木や花、鳥や幾何学文様など、作り手の身近なものが題材であり、素朴ながら繊細で力強い表情が魅力。


黒唐津

鉄分を多く含んだ黒釉を用いて焼き上げたもの。使用する土や岩石に含まれる鉄分の量や、酸化の度合いにより、飴色から褐色、深い黒まで、ひと口に黒と言っても幅広い色彩を生み出すが、総称して黒唐津と呼ばれている。


三島唐津

朝鮮の李朝三島の技法を受け継いだもの。唐津では江戸時代に生産が始まったが、日本各地の産地で類型を見ることができる。半乾きの素地に印花紋や線彫などの文様を施し、化粧土を塗り、さらに釉薬をかけて焼き上げていく。


青唐津

木灰釉をかけて焼いたもので、燃料の灰や生地の中に含まれる鉄分の化学変化で、酸化炎では淡黄褐色となり黄唐津と呼ばれ、還元炎では、青く発色し青唐津と呼ばれる。流れやすく、器の内側に溜まった釉薬も見どころのひとつ。


朝鮮唐津

鉄釉と灰釉の二種類の釉薬を使い、高温で焼くことで釉が自然に溶け合う様子が楽しめる。釉薬同士の境界に生まれる青や紫、黄色などの繊細な色や多彩な表情が特徴。黒く発色する鉄釉を下に、乳白色の灰釉を上から流すものが多く見られる。


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karatsu P1-P10 [ja]

唐の津

九州の最北端。その名の通り、唐(中国)へと向かう津(港)のまち、唐津。朝鮮半島に近く、中国大陸の人・もの・文化をいちはやく受け入れ、発展してきた。

その歴史は古く、縄文時代後期の日本最古の水田跡をはじめ、多くの遺構が残されている。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、末盧国(まつろこく)と記され、この地方一帯を指す松浦の由来ともなった。『万葉集』や『源氏物語』にも登場し、数々の歌も詠まれている。

大陸との交流により、室町時代から始まったとされるのが、唐津の焼き物文化だ。戦国時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵により大きく進化を遂げ、唐津焼となったと伝わる。

江戸時代後期から昭和にかけて石炭の積出港として栄えたこともあり、城下町の風情を残しつつも、明治大正の近代建築や、昭和レトロな商店街が不思議と調和している。

唐津は、豊かな食と風光明媚な海のまちというだけではなく、お城や唐津くんち、虹の松原、唐津焼と、幾多の時代に彩られた資源に恵まれた、⽂化⾹るまちでもある。

映画「グラン·ブルー」で知られるフリーダイバー、ジャック·マイヨールも唐津に魅せられ、幾度となく唐津を訪れた。

世界とつながり、各時代時代に地層が重なるように様々な文化が花開いた唐津には、訪れるたびに、新しい発見と出会いがある。


からつもん

[Old Karatsu Ware]

岸岳付近で焼かれていた素朴な焼き物に技術革新が起こったのは、桃山時代。日本が朝鮮へ侵攻した際、一緒に連れ帰った朝鮮人陶工たちが、大陸の最新技術を伝えました。作風も種類も豊かになった唐津焼は、多くの茶人や文化人にも愛されており、「一井戸、二楽、三唐津」とは、古くからの茶碗の格付けを表した言葉である。

一時期衰退した唐津焼だが、中里無庵による古唐津技法の復活等により、現在では七十もの窯元が切磋琢磨し、唐津焼の伝統と革新を支えている。


作り手八分、使い手二分

[tsukurite hachibu, tsukaite nibu]

使っていくうちに、釉薬のひび割れが模様のように浮き出てくる(貫入)。それは、作り手から使い手に、作品の完成がゆだねられた証でもある。

唐津焼には、「作り⼿⼋分、使い⼿⼆分」という⾔葉がある。作り手が二分の余白を残し、使われることで真の完成とする、という唐津焼の哲学である。時間をかけて育てていくことで、⼟⾊が美しく変化していく。あえて完成形にしないからこそ、使い⼿の愛着が増し、唯一無二の〝自分だけの器〟となるのだ。


用の美

[you-no-bi]

落ち着いた色合いにシンプルな線。唐津焼は、一見すると地味な焼き物かもしれない。しかし、実際に料理を盛りつけ、野花を生けたとき、その真価は発揮される。⼟の温かみに溢れ、素朴で⼒強い質感は⽣活にしっとりと溶け込み、⾃然と料理を引き⽴て、また料理も器に引き⽴てられていく。

使うことで完成する器。その響きはとても現代的だ。使い手のことを考え、進化させ続けてきた唐津焼は、伝統的かつ、最先端の器でもある。


暮らしと器

文・行方ひさこ

一目見た時に、その「もの」が物体なのにも関わらず、あたかも命を持っているかのようにイキイキと輝いて見えることがある。一目惚れとはこんな瞬間なのかもしれない。それとは逆に、マンネリとも言える周りのものたちを「あれ、今日はいつもに増して佇まいが美しいね。」と、ふと惚れ直してしまうこともある。すると、いつもは普通の「もの」だったのに、愛情にも似た温かい感情を持つことで、あちらも「自分は特別だ」という顔をしているような気がしてくる。幸せな両思い。なんて思い込みなのかもしれないけれど、いずれにしても日々の暮らしの中で身のまわりに1つでも多く、自分にとって特別だと感じるものがあるということは、心満たされる時間を増やしてくれる。

暮らしの中に美しい「はずし」方、すなわち良い「スキマ」を見つけられることも、また幸せなことだと思う。私は、常日頃から「はずし」の幅をコントロールできる人がセンスの良い人だと感じている。正解を知っているからこそできることだし、バッチリ決めて武装すると、そこにはそれ以上の余白がなくなるからだ。華美なものでも作家性でもなく、高度な技術で作られたものでもなく、自分に必要なものが一番美しいのかもしれない。思いのままに心置きなく使えるものの方が生活の中で活きることも多いのではないかと感じる。言葉にできなくても、自分だけに感じるものがあればそれで良い。人であれ、ものであれ、向き合う相手と心地の良い関係を綴っていくことは、日々を、心を、美しく耕してくれる。

暮らしの原点はすべて自然から始まり、人が作り出すものの中には、表現や技法は違っても自然が存在する。器は、「食べる」という人にとって一番大切な、命を繋ぐ行為に欠かせないものである。大地から掘り出した土や石で器を作り、そこに自然からいただく命の恵みを載せる、手と心で生み出された器は、人間と自然とを繋ぐもの。そしてさらに、器は文化の交流により新たな花を咲かせてくれる。人と人との関わりを生み出し、人間と自然とを循環させてくれているものの1つ、そう思うと暮らしの中での器の立ち位置は、ぐんと重みを増してくる。

ことに唐津焼は、今でも大量生産とは違い、作家自らが山に入り土を掘り粘土を作る。釉薬も木や藁や自然のものから作られることが多く、まるで草木染のようだ。土を作るところからお客様のもとに届くまで、全工程を自身で行う作家が多いのも特徴のひとつ。全てが大地から生まれ、自然の恩恵を目一杯に受けて作られているからなのか、器そのものに自然の景色を見ているようだ。粗い土から作られる素朴さの中に品格を兼ね備えているのが魅力の一つだが、作家それぞれの特徴がきちんと「はずし」となって現れていることが多いように感じる。知れば知るほど奥深く、その「スキマ」はなかなか抜け出せない沼のようなものなので、心して関わっていただきたい。


行方ひさこ/ブランディング ディレクター。アパレル会社の経営、ファッションやライフスタイルブランドのディレクターとして活動。近年はエシカルとローカルをテーマに、その土地の風土や文化に色濃く影響を受けた「モノやコト」の背景やストーリーを読み解き、自分の五感で編集すべく日本各地の現場を訪れることをライフワークとしている。


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1022 [雲仙市] [神代] 切通、島原街道 [日]

切通、島原街道

切通(きりどおし)

ここは「切通」と呼ばれ、丘を切り開いてつくった道路でした。かつては鶴亀城の東側を守る「切通城」が、現在の神代小学校の所にありました。

島原街道

島原街道は、江戸時代に島原半島を一周する主要な道路で、島原城下から島原半島北側の有明海沿いを半時計回りに半周して愛野へ至る道(北目道)は、島原藩主の参勤交代において、諫早で長崎街道と合流して江戸へ向かう道となっており、今でも「殿様道」と呼ばれています。この切通から西へ向かうと佐藤医院の山手を通って長浜に至り、諫早方面につながっています。東へ向かうと、札の元などを経由して、島原方面につながっています。

また、真っすぐ西へ向かうと、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている神代小路地区があり、佐賀藩神代領の武家町でした。今なお江戸時代の地割が残り、武家屋敷等が保存されています。


所在地


国見まち歩きMAP

1021 [雲仙市] [神代] 淡島神社 [日]

淡島神社

文化9(1812)年、神代鍋島領主第10代・鍋島茂體(しげやす)の時代に創建されました。当初、粟島神社として建立されましたが、いつの頃からか淡島神社と呼ばれています。

現在の社殿は平成4(1992)年3月に再建されたものです。全国各地の淡(粟)島神社と同様に「縁結び」「安産」などにご利益があるとされ、特に女性の守り神として篤い信仰を集めています。ミニ鳥居が3基建っており、安産祈願のため、妊婦の方がくぐることで有名です。

また、桜の名所としても知られており、例年4月には花まつりが開かれ、演芸が奉納されるなど、多くの人出で賑わいます。周年行事の際には「浮立」や「義士踊り」なども披露されます。


所在地


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1020 [雲仙市] [神代] 大門橋、薬師堂 [日]

大門橋、薬師堂

大門橋

この薬師堂から東へ約40mの場所にある大門橋は、島原藩と神代鍋島領の境目である神代川に架かかっている橋です。かつては手すりがない石橋が現在地より30mほど山手の方に位置し、神代領の入り口に対して鍵型をなしていましたが、昭和32(1957)年の大水害で壊れ、現在の場所に付け替えられました。

薬師堂

薬師堂には薬師如来、地蔵菩薩、八天宮が祀られています。薬師如来は、病気に苦しむ人々を助ける仏です。地蔵菩薩は、釈迦が亡くなってから弥勒菩薩が現れるまで衆生を救済するとされる菩薩で、享保8(1723)年、宝暦7(1757)年の建立とされます。火伏せの神様とされる八天宮は、大門地区で火災が続いたため、昭和35(1960)年に下古賀の田中山から分祀されたものです。


所在地


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1019 [雲仙市] [神代] 伊東家 [日]

伊東家

伊東家は、江戸時代から現代まで続く医者の家柄です。邸宅は残っていませんが、オガタマノキなど樹齢200年を超える大木が残っています。伊東家は初代・新左衛門が興し、キリシタン大名・有馬晴信により漢方内科医として召し抱えられた3代目に、キリシタン武将・結城弥平治(ゆうきやへいじ)の娘が嫁いでいます。

土黒村には寛文8(1668)年、4代目の代に移住し、「披雲堂(ひうんどう)」を開業し、治療を行っていました。寛政4(1792)年の島原大変時には、津波被害等で避難を余儀なくされた負傷者等を、7代目が治療したことが記録に残っています。

結城弥平治は美濃(岐阜県)出身で、小西行長の肥後(熊本県)宇土城入城に伴い、矢部城主を務め、関が原の戦い後、有馬晴信に金山城主として迎えられました。金山城は地元では結城城と呼ばれ、城跡が残っています。


所在地


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1018 [雲仙市] [神代] 札の元、番所跡 [日]

札の元、番所跡

札の元

この十字路にはかつて高札が立っており、札の元と呼ばれていました。殿様が参勤交代で江戸までの往来において、土黒港を利用する場合、この四辻を通っていました。交差点の片隅には、明治23(1890)年建立とされる道標が残っており、東西南北にそれぞれ、東(島原)、西(長崎)、南(温泉)、北(県道)と刻まれており、往時から主要な十字路だったことが伺えます。

番所跡

江戸時代、番所が置かれていました。番所とは、交通の要所に設けられ、通行人などを見張り、積み荷の検査や税の徴収などが行われていた場所です。かつては入り口が鍵型の石垣が残っていましたが、道路拡張に伴い解体されました。


所在地


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1017 [雲仙市] [神代] かなくそ原 [日]

かなくそ原

「かなくそ」とは、砂鉄から鉄をつくる製鉄の際に出る鉱滓(こうさい、「かす」のこと)を指します。道路でも畑でもこの辺一帯を少しでも掘れば、かなくそがたくさん出てきたため、この地域は「かなくそ原」と呼ばれ、この坂道は「かなくそ坂」と呼ばれています。この地域一帯では古代から盛んに製鉄が行われていたようです。

製鉄の原料となる砂鉄は、土黒川から採取したものとされており、この川は別名「鉄川(くろがねがわ)」と呼ばれています。


所在地


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1016 [雲仙市] [神代] エノキの木 [日]

エノキの木

島原街道の街道筋にはエノキの木が植えられ、今なおその姿を残している木もあります。

江戸時代初期に全国の街道を整備して、目印として1里(約4km)ごとに樹木を植えることになった際、将軍の「余の木(それ以外の木)がよい」という言葉を家臣が聞き間違えて、エノキを植えることになった、と伝えられています。


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1015 [雲仙市] [神代] 種屋跡、蚕場(かいこば) [日]

種屋跡、蚕場(かいこば)

現在の多比良地区馬場集落センターの近くには、かつて養蚕農家に配る蚕の幼虫を飼育する長屋があり、農家の娘さんが指導者のもと働いていたと伝えられています。ここより東側には、蚕の卵を取り扱っていた種屋があり、養蚕指導員が駐在し、指導に当たっていたこともありました。

また、西に400m進んだ土黒川には、土黒出身の松本信輝が蚕室(さんしつ)を設け、養蚕の研究に取り組んでいました。松本は、雲仙岳の風穴の冷気を利用して蚕の卵を眠らせ、養蚕の開始時期を調整する貯蔵蚕飼育に成功し、島原南高地区の養蚕業の基礎を築いた人物とされています。


所在地


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